鶴見事件について
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鶴見事件は冤罪(えんざい)です
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弁護士:大河内 秀明
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二十日午後二時半頃、横浜市鶴見区の不動産兼金融業の事務室奥和室で、社長(当時六十五歳)と妻(同六十歳)の二人が頭から血を出して仰向けに死んでいるのを、訪れた知り合いのタクシー運転手が見つけ110番通報。
鶴見署は、夫婦が鈍器のような物で後頭部や顔などを殴られていたため、殺人事件と断定。現場には争った跡や物色した跡がない(注1)ことから、恨みによる顔見知りの犯行と見ている。
一階事務所入り口の戸は閉まっていたがカギはかかっておらず、和室内に血痕が飛び散っていた。同日午前九時半頃、被害者が近くの路上に店からゴミを出しにいくところを近所の人が見ており、この後、発見されるまでの間に和室内で殺されたらしい。
同商事の入っている建物は、木造二階建てで、一階の事務所部分以外はアパート形式になっており、一階に二世帯、二階に四世帯が入居していたが、アパートから事務所へは直接出入りができなかった。
(注1)その後、銀行から持ち帰った黒い鞄、(1、千二百万円 2、預金通帳 3、銀行印)と布袋がなくなっていることが分かる。
被告人となった高橋さんは、公判で再び殺人を否認しましたが、七年後の1995年9月、死刑判決を受けました。
現在控訴中ですが、控訴審の審理はまだ始まっていません。
(注1)被害者に嘘の融資話をして金を用意させたというもの。
(注2)犯行時間帯は午前10時40分から11時10分までの30分間と考えられていた。被害者が事務所を訪れたという時間が10時55分。
取調官によれば、高橋さんは正直に自白したとされています。
しかし、それにもかかわらず、犯人であれば間違うはずのない事柄について、自白内容は事実と大きく食い違っています。
まず、「犯人であれば、絶対に間違うはずのない」殺害順序について、高橋さんの自白は逆になっているのです。
つぎに、高橋さんが供述した凶器はバールとプラスドライバーですが、再鑑定で明白に否定されていますし、現場の壁などについている打撃痕も警察の鑑識によってバールではないことが証明されています。
また、銀行から金を入れて持ち帰った黒い大きな鞄と、借用証や不動産の権利証などの重要書類が入った布袋がなくなっていますが、高橋さんにはその説明ができないのです。高橋さんは布袋の存在すら知らないのです。布袋が押し入れにしまってあることは、内情に詳しく被害者の身近にいる者しか知らないことなのです。
一ヵ月前から出入りするようになった高橋さんには、被害者に対する怨恨事情はありません。
ところが、遺体には、殺害とはおよそ無関係な刺し傷が50ヵ所以上もあり、鑑定人も怨恨がらみの事件であることを強調しています。
みんなに知ってもらいたい
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Y.I.
以下の文は、「死刑」から高橋和利さんを取り戻す会から発行された会報第1号[菜の花」(1998年4月15日発行)から抜粋して転載したものです。
Y.I.さんは、二十歳のとき、新聞紙上で高橋和利さんの死刑判決を知り、高橋さんと文通を始めました。バイト先の知人に「『死刑』から高橋和利さんを取り戻す会」のリーフレットを配ったところ、つぎのような感想、疑問、質問を受けました。
I.さんは地方にいる友人にもリーフレットを送ろうと思いましたが、同じような質問をされると思い、事件の状況や冤罪になってしまった過程をわかりやすく書いたパンフレットを作成しました。
その内容をI.さんの了解を得て、ここに掲載します。
これを読んで、
「警察ってこんなことするの?」「信じられない」「裁判所は平等のはずでは?」・・・などなど、疑問に思うことが次々と出てくることでしょう。しかしこれは紛れもない事実です。
そして、覚えておいてほしいのは、冤罪は誰にでも起こりうるとても恐ろしいことです。他人事では済まされません。今日、平和に過ごしていても、明日の今頃はどうなっているかわかりません!
☆これから高橋さんの手紙の抜粋を交えて記していきます。
事件の日、高橋さんは被害者の不動産会社から事業資金を借りる約束をしていた。(車で)指定された時間より三十分遅れて被害者の事務所に着いたとき、すでに二人とも殺されていた・・・。
『私は最初、何がなんだか状況が飲み込めなくて、倒れている二人の側に近寄って頬を叩いたり体を揺すったりしましたが、息はしていませんでした。でも殺された直後であったらしく、まだ体温が残っていたのを今でもはっきり覚えています。異常な状況のもとへ踏み込んでしまったことに茫然自失、腰が抜けたような状態になりましたが、110番をしようと気を取り直し、這いずるようにして電話のほうへ行こうとしたとき、机の下にビニール袋(スーパーなどでくれるような)に入っている現金の束を見つけました。それでも110番さえすればこんなことにならなかったのですが、事業資金が必要で借りる約束をしていた私にとってお金は喉から手が出るほど欲しかったのです。
私がしたことは常識では考えられないと人は誰しも言うでしょう。(中略)
事務所から私の名刺と、お金を貸すことになっている内容のメモが見つかったことで警察は、私を犯人と決めつけてしまいました。』
☆事件から約10日後、自宅近くの駐車場で、高橋さんは逮捕された。この時点で、逮捕状が出ていないので任意同行ということになっているのだが・・・。
『四、五人の刑事に取り囲まれるようにして無理やり警察の車に押し込められ、会社の者や妻が心配するからひとこと言葉をかけていきたい、できれば着替えも(作業服だったから)したいという願いは無視され、車の中では財布、運転免許証など所持品のすべてを取り上げられました。このような任意同行があるでしょうか?』
☆「任意」とは「職質を受ける者の合意を得て、捜査できる」ことをいう。これではまるで、「強制」である。(強制の場合、令状が必要)
それから警察署に着いて・・・・
『いくら私が人殺しなどやっていないと言っても聞き入れてもらえず、頭を机に叩きつけたり、わき腹や足を蹴飛ばしたり、やることは暴力団と変わりありません。辛かったのは、朝の七時から夜の七時まで一度もトイレに行かせてもらえなかったことです。(膀胱に今も後遺症があります)トイレに行かせてもらいたいといくら頼んでも、殺人を認めてからゆっくり行けといってせせら笑うだけです。膀胱は痛み、腫れ、冷や汗が出てしまいには体にふるえが来て、やがて何の感覚もなくなりました。それでも刑事たちは、しぶとい野郎だ!と言って蹴飛ばしたり、こづいたりといったことが続きました。』
『肉体的な苦痛に負けてやってもいない殺人を認めるつもりは全くありませんでしたから、歯を噛みしめて耐えたのですが、警察は実に卑怯な手段に出たのです。私の妻を連行してきて別の部屋で共犯の容疑で取り調べているというのです。
その前から、お前がいつまでも吐かないなら女房をしょっぴいて来て徹底的に締めるぞと脅かされていましたが、そんなことはできる筈もないし、調べればむしろ関係のないことがはっきりするだけだとたかを括っていたので大変驚き、妻には何の関係もないだろうと大声で叫んでしまいました。
それでも刑事たちは、元気がいいじゃねえか、その調子で頑張れよ、お前がそうやって強情をはっていればいるだけ、同じ時間だけ女房が苦しむことになるんだ、かわいそうだと思わねえのか。それとも女房と二人留置場に泊まってゆっくり考えてみるか、などという始末で、まるで人をいたぶって楽しんでいるようでした。(中略)
(刑事の言葉)一応認めておいて、あとは裁判で白黒つけろよ。仮にお前が認めても裁判で証拠が出なければ無罪になるのだから、かあちゃんのことも考えてやれよ・・・。私は屈服させられました』
『事務所からは重要書類が入った大きなカバンと、やはり、重要書類が入った布袋が持ち去られており、犯人の目的は書類関係であったように思われます』
『人殺しなどやっていないのだから調べれば分かること、やってもいないのに証拠などあるわけがないのだし、という思いだったのですが、それは実に甘い考えでした(中略)そして後に分かったことですが、これは警察の罠だったのです。その日、妻は警察なぞに連行されてきてはいなかったのです』
『しかし、この時の取り調べの状況は、一部始終を録音テープにとっているのを知っていましたから、証拠として開示するよう請求しましたが、検察は最後までそのようなものは存在しないの一点張りで、裁判所がまたこれを容易に認めてしまうのです。
このほかにも数点、弁護側から、証拠開示(無罪に大きな影響力をもつ)請求をしましたが、検察はこれを拒み続け、裁判長(上田誠治)もまた検察に対して一度も開示の勧告もせず沈黙を通しました。
また、私を取り調べた刑事たちも証人として尋問しましたが、一つとして本当のことは言いませんでした』
☆凶器や殺害状況など、検察側と弁護側の争点について
その他、ここには記してはいないが、犯行時間や殺害順序などの事柄も真っ向から意見が対立している。
[裁判所]
(1995年9月8日神奈川、毎日新聞引用箇所あり)
◇ここまで読んで皆さんはどう思ったでしょうか?まるで小説の一文を読んでいるような気がしませんでしたか?が、しかし、これは現実、ノンフィクションです。
最後に・・・皆さんに理解していただくよう、高橋さんの生の叫びをできるたけ忠実に記してみたつもりです。
今まで長々と読んでいただきありがとうございました。
心から感謝します。
1998年3月1日 Y.I.