鶴見事件の控訴審判決について 
02.11.25

 

鶴見事件の控訴審判決について

主任弁護人 大河内秀明

1 鶴見事件の概要とこれまでの審理の経過

 1988年6月20日午前10時15分頃から11時頃までの間に,横浜市鶴見区にある金融業兼不動産業者の事務所内において,経営者である65歳の男性とその妻(60歳)の2人が,鈍器などで惨殺されるという強盗殺人事件が発生した。

 事件から10日余り経った7月1日の朝,高橋和利さんは任意同行を求められて神奈川県警察本部に連行され,取り調べを受けた。高橋さんは,犯行を否認していたが,過酷な取り調べを受け,その日の午後になって犯行を認める供述をするに至った。そして,起訴されるまでの23日間に及ぶ取り調べの中で,犯行を認める詳細な自白調書が作成された。
 しかし,裁判では,高橋さんは,終始一貫して殺人を否認している。
 横浜地裁は,7年に及ぶ審理を経て1995年9月,高橋さんに死刑の判決を言い渡した(中西武夫裁判長代読)。
 弁護側が控訴し,4年後,ようやく東京高裁での審理が始まった。そして,2002年10月30日,東京高裁(中西武夫裁判長)は,控訴棄却の判決を言い渡した。これに対して弁護側は即日上告した。なお,中西裁判長は,判決の2週間後の11月15日に依願退職した。

2 高橋さんに対する容疑の概要 

 高橋さんは,事件の1か月前に,知人の紹介で被害者の事務所に出入りし借金をするようになった。顧客の紹介を頼まれていた高橋さんは,あるとき,被害者のご機嫌をとろうとして,知人が金を借りたがっているという架空の融資話をもちかけた。ところが,被害者はこの話に飛びつき,渋る高橋さんを強引に説き伏せ,事件当日,被害者が1200万円をその男に融資するという話を決めてしまった。事件当日,被害者は,銀行で1200万円をおろし,午前10時30分頃,事務所に戻った。その後,事務所を訪れた高橋さんがその1200万円を持っていった。

3 その他の事実経過

 現場はガラス戸1枚で市道に面した事務所で,外から事務所の中がガラス越しに見える。被害者両名は,事務室に続く奥の6畳間の座敷で頭を突き合わせるようにして仰向けに倒れて死んでいた。被害者は,客を座敷に上げることは絶対になかった。女性の遺体には怨恨を強く匂わせる60か所を超える執拗な刺切創が加えられていた。女性は,便所の中で絶命し,そこに数分間放置されていたと考えられるのに,なぜか座敷に仰向けにされていた。現場からは,銀行でおろした1200万円を入れていた大きな鞄と重要書類が入っている布袋がなくなっていた。布袋は粗末な風呂敷を縫い合わせて作ったもので,座敷の押し入れにしまうことに決められていた。

4 公判審理の経過

 上記の容疑と事実経過については,弁護人も認めており,争いはない。裁判では,主に凶器と殺害態様が問題となった。
 そして,14年に及ぶ審理の結果,被告人となった高橋さんの自白は,凶器が一致せず,殺害態様も全く合わないことが判明した。
 まず凶器については,自白ではバールとドライバーとなっているのに,それでは説明できない損傷があることが判明した。しかし,中西判決は,解剖医の推定した凶器を真に受けた捜査官が被告人を誘導した結果,虚偽自白が作られたと考えられるので,自白が事実と異なることは被告人の犯人性を否定するものではないと判示した。
 次に殺害態様についても,検察官の構想は,1200万円を持って事務所に帰ってきた被害者男性が先に殺され,その後外出先から事務所に戻ってきた被害者女性が殺されたという「男性→女性」の異時殺であったが,中西判決は,女性が外出した形跡のないことからその可能性を否定し,被害者両名が事務所に一緒にいるところを,被告人が鈍器で襲って殺害した同時殺であると判示した。しかし,裁判所が認定した殺害態様が自白と大きく異なっていることについては,なぜ被告人がそのような虚偽自白をしたのかについて,中西判決は理由を述べていない。

5 中西判決の概要

 1審以来,控訴審の審理が終結するまでの14年間,検察官は,終始一貫して,「男性→女性」の異時殺を主張していた。これに対して弁護側は,男性が銀行に行って留守の間に女性が殺され,その後,事務所に戻った男性が殺されたという「女性→男性」の異時殺か,あるいは男女2人の被害者が事務所に一緒にいるところを襲われた同時殺であり,特に後者,すなわち同時殺の可能性が高い,と反論していた。
 中西判決は,検察と弁護側の攻防の対象となった主要な争点について,凶器と殺害態様に関する自白の信用性を否定して検察側が提出した証拠による立証を斥け,弁護側の反論を認めた。すなわち,検察と弁護側の主要な争点について,裁判所は弁護側の反論に沿う見解を示した。にもかかわらず,裁判所は,被告人を犯人であると断定した。
 弁護人は,殺害態様,特に殺害順序は同時殺であり,単独犯による鈍器を用いた同時殺は,前記の現場の状況からみて不可能であるから,共犯を想定できない被告人の犯人性は否定されるという論理構成を立てていた。しかし,裁判所は,「(同時殺が)単独犯では遂行不可能であるとまでは認められない」(判決文のママ)と判示して,被告人の犯人性を肯定した。そして,同時殺の態様については,女性が便所に入った隙を狙って,男性に茶を所望するなどして座敷に上げ,まず男性を瞬時に倒して殺害し,それから便所に入っている女性を殺害したと説明した。

6 中西判決の問題点

 単独犯による同時殺の可能性は,弁護人のみならず捜査官も否定していた。それは,検察官が,徹底したつぶしの捜査によって確実に突き止められるはずの女性の外出先が見つかっていないにもかかわらず,殺害態様を「男性→女性」の異時殺と構成し,見つかるはずの女性の外出先が証拠によって裏付けられていないにもかかわらず,見切り発車する形で起訴せざるを得なかったことに端的に示されている。
 14年間に及ぶ公判審理の中で,単独犯による同時殺は、実行不可能であるという認識で検察弁護側双方の見解が一致していたため,全く争点に挙がっていなかった。それを中西判決は,単独犯による同時殺という検察官も弁護人も考えてもみなかった争点(問題)を裁判所が勝手に作り出し,それに裁判所自らが答を書くという自問自答を行ったのである。それは,弁護側にとっては寝耳に水の不意打ちであった。検察との攻防には完全に勝利した弁護側も,検察の後ろ盾となった裁判所には勝てなかった。勝敗を決する立場の裁判所が検察側に与したのでは,初めから弁護側に勝ち目はなかった。

7 今後の展望

 裁判所の自作自演による中西判決は,検察弁護側双方の攻防を経たものではない。それ故,単独犯が鈍器を用いて本件現場の状況下で被害者両名を同時に殺害することが可能かどうかという論点は,全く深められていない。中西判決は,殺害態様について,「女性がトイレに入っているとき,男性が座敷で先に殺害され,その後,便所付近で女性が攻撃され殺害された。それ故,座敷の奥の隅にある便所から離れた座敷内にある流し付近では,女性は攻撃されておらず,したがって流し付近にある女性の血液型の血痕は,犯人が返り血を流しで洗ったとき付着したものである」と説明している。しかし,中西判決では,例えば,流し付近に凹んだポットが倒れていてその下方側に位置した取っ手部分に滴下血痕が付着していることを説明することが極めて困難である。弁護人は,この血痕は「凹んだポットが倒れていることから,流し付近で女性が攻撃され,そのとき傷口から飛び散った血が,立っている状態のポットの取っ手に上から滴下して付いた」ものであると主張していた。これに対して,中西判決は,犯人が流しで返り血を洗ったとき,滴下血痕が斜め下方に飛べば倒れたポットの下方側に付く可能性はあると認められるから,裁判所の考える殺害態様と矛盾はないと述べている。しかし,裁判所のこの見解は,被告人を有罪にするためのこじつけ以外の何物でもない。なぜなら,流しで返り血を洗ったとき,血痕が斜め下方に放物線を描いて落下して,ポットの下方側に位置した取っ手に付着するような軌跡を描くことは不可能に近いと考えられるからである。
 単独犯による同時殺の可能性については,これまでの14年間の審理を通じて全く論じられていない。したがって,その可能性については,検察弁護側双方の攻撃防御の中で証拠価値に関する議論が全く行われていない。少なくともポットを証拠に提出してポットの取っ手に付いた滴下血痕が,中西判決のいうように斜め下方に向かう軌跡を描いて飛ぶものか否か,水で薄められた血痕が検証調書の写真にあるような鮮血の状態で付着しうるものか否か,改めて慎重に検証してみる必要がある。弁護人は,これまでポットを証拠開示するよう,検察官に強く要求していたが,検察官はかたくなにこれを拒否し,裁判所も弁護人による証拠物提出命令の申し立てを却下している。
 そのような経緯を考えれば,中西判決は,どう控え目にみても最高裁では破棄差し戻しを免れない運命にあるといわざるをえない。
 弁護人は,無罪判決の獲得を富士山登頂に例えれば,1審判決で6合目まで登り,そして控訴審判決で9合目まで登ってきたと考えている。それは,1審判決では,「男性が攻撃されているとき,女性がどこで何をしていたか」という主要な争点についての判断を回避するといった不誠実極まりない認定の仕方をしていたのに対し,中西判決は,そのようなごまかしだけは避けており,争点に関して一応の答を出しているからである。加えて,それだけに中西判決は,自ら退路を断ったことになるが,弁護人からみれば,その判決理由はこじつけの羅列であり不合理極まりないものだからである。
 それ故,弁護人は,本件の上告審判決が,仁保事件,山中事件に続く最高裁での死刑判決破棄の事例となることは間違いないものと自信を深めている。


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